大学院の授業では、一つのテーマや問題について議論する機会が結構あります。
こういう議論の場は、参加者それぞれが自分の主張を明確・簡潔に、かつ切れ味良くまとめて、自分の意見を通す競争のようになることもあります。時には議論のための議論になったり、相手を論破したという爽快感を持つことが目的になったりして、みんな真剣なだけに、後で客観的に振り返ると結構笑えたり。
で、この「明確・簡潔・切れ味良く」を目指す場では、戸惑いや逡巡といった思考の停滞は、全くマイナスなわけです。戸惑って「あっちの気もするし、こっちの気もする。いや、もしかすると、どちらでもないかも」なんて言おうものなら、「考えがまとまってないのに、発言するな」的失笑で一瞥され、即座に隅っこに押しやられます。まぁ、次の発言の機会は、その授業の中では回ってこないかも。そして、何度もそういうことをすると、もう何を言っても周囲から真剣に聞いてもらえなくなるかも。
そして、ビジネススクールにおける「明確・簡潔・切れ味良い」議論の着地点は、大抵の場合、経済的な成功です。簡単に言うと、「それでいくらもうかる?」「どれだけコスト削減できる?」「法律にひっかかることはない?」というお話。
でも、議論の切れ味を優先するあまり、あまりにも議論に逡巡がなさすぎることに、最近ちょっと危うさを感じるんですよね。
現実には、逡巡を重ねても自分の選択に確信が持てない、でも迷い続けるわけにはいかないので、断腸の思いで、リーダーとして辛い選択をする、なんてことありますよね。
例えば、業績の悪い会社を存続させるために、一部の人を解雇しなくていけない。
もしくは、それまで操業していた工場を閉めなくてはいけない。
その決断が正しいかどうかではなく、その決断をすることに、人として戸惑いや逡巡があることは、とても自然だし人間的なこと。でも、組織の長として、行くも地獄、残るも地獄の選択をせざるを得ない。
このようなことが、人生にも仕事にもあると思います。
「あの時はああせざるをえなかった」とは思いながらも、どこかに「本当にあれ以外方法はなかったんだろうか?」という思いを引きずっていたりする。人を傷つけたことに、自分が傷つく。
「そんなメランコリックになっても、何も生まれないし、そういう非生産的なことは、まぁやめときましょうよ」
ビジネススクール的には、それも正解かもしれない。
でも、本当にそれでいいのかなぁ。
ビジネスとは、非人間的になることとは違うから。
「こういう症状が出たときには、こうやって解決できます」というパターンを幾通りも覚えて、「こうなったら、こう反応する」というパターン練習を繰り返していると、瞬発力は確実にあがるけれどね。まるで、ボタンの早押し競争のように。
例えば、「今の時代、社会的責任を果たしていると世間に発表できないと、良い人材は採用できないから、CSR活動をアピールしましょう」って発言があったとしたら、きっとうなづく人は少なくないと思うけれど、「そもそも社会的責任って、そういうものなんだっけ??(笑)」という考え方もありでしょう?
教科書的には今は○のことが、将来社会の価値観や状況が変わったときに×になることって、結構ありますよね。
周囲に翻弄されず、「自分は何を正しいと思うか」に寄り添って自問自答し続ける力は、その人の文化や哲学や倫理が育むものだと思う。ビジネススクールに、哲学の授業って何でないんだろう??